一の倉沢衝立岩正面壁雲稜ルート


一ノ倉沢衝立岩正面岩壁(無雪期)  昭和34年8月15日〜18日

登攀隊 L南、藤
支援隊 多、穂苅、吉村、高橋(崇)

○登攀隊
8月15日(晴)
旧盆で帰郷する人たちで混雑している車内から、土合駅のホームにおり立つと、思わずほっとする。夜明けはまだ間がある暁暗に、灯火を用意して駅を出る。ほおにはわずかばかり吹く風がつめたくさわやかで気持よい。リーダーは南、パートナーは私(藤)、サポートは吉村、穂苅、高橋(これに16日から多が加わる)の5人である。

今日の計画は、衝立岩正面を登攀しようというねらいであるが、これは昨秋九月以来、会としては5回目のアタックである。果たして登り切れるか、また追い返されるか、私の考えでは、はっきりといいきれない。リ ーダーは充分の確信をもっている。おそらく南は登り切 れる自信があるのであろう、5日間の行動日数を組み、なおそれに2日間の予備日数も見込んでいるのである。予定していた一ノ倉沢出合近くの幕営地につくころには、夜はまったく明けはなたれている。

南と私のアタッ ク・メンバーは、登攀用具をもち、あとからサポートしてもらう物資を打ち合わせて、一足さきに出発する。一ノ倉沢右岸を高巻いてから再び本谷の河床にドり、中央稜裾尾根の末端に取りつき、このルートをとって、衝立岩正面岩壁の基部へと向かう。基部からいよいよ登攀開始である。灌木まじりの急な草付きを70m前後登りつめたところに、2人あまりは立てるテラスがあり、ここでアンザイレンする。

トップの南が、まずテラスから直登をはじめる。10m登ったところに、独標登高会のひとがアタックした際 の固定ザイルがある。南から声がかかって私が登りはじ める。登りきったところにはテラスがあって、独標の人 たちのザイルは、私たちがこれからいどもうとしている オーバーハングをさけ、左上にと張られている。

南は独標のルートとは別に、右ななめに登りはじめる。 やがてオーバーハングに行く手をはばまれた。この庇状 になった部分は顕著なもので3mぐらいは張り出しているだろう。前回すでに3日間にわたって苦闘をかさね、 約20本のハーケンと、ボルトを5本埋め込んだところ である。ここをアタックした前回のパーティの一人である石橋は、4本目のボルトを埋め込むためにどんなに苦労したことか、あのときは私も参加していたので、そのときの苦闘が再び思い起こされた。

あのときの石橋の苦 しい努力が、りっぱな役割を果たしてくれたのだ。南は調子よくこのハングを乗り越えていく。このオーバーハングを乗り越した上は、4mほどの垂壁になっている。その上には3〜40cmぐらいの、これも明瞭な庇になっ ているオーバーハングがかかっている。この垂直に落ちている壁には、オーバーハングがくい込んでいて、下に長く、しかも細くなっている不安定な岩がついている。

やがて南からの合図で、この右側を登ってオーバーハングの上に出てみると、5mほどの凹状になったところがあった。南はこの両側にハーケンを打ち、この左右を捨 て縄で結んでジッヘルのポイントにしている。ここには7mの縄梯子が南によってかけられている。今日と明日の2日間行動をつづけ、そのあとで一度、幕営地まで下 り、改めて3日目にアタックをつづける予定なのだが、 この縄梯子は、その際の登攀を容易にするために取りつ けたのである。

南がいるところは、彼一人がやっと立てるだけで、2人はとても一緒に立つことはできない。私は縄梯子を登りきらず、その上部に立ってセルフ・ビレーをし、南が行動を開始するのに備えた。南が2mほど 登ったあとで私をジッヘルし、私は南のいた確保点に達 した。 トップの南は登攀をつづけていく。15mくらい登ったろうか、オーバーハングに南は頭をおさえられ、左へとルートをとって行きづまっている。

このとき南から声 がかかって、私が南の右へと出るように指示してきた。トップは南から私に交代されたわけだ。私は南を左にして、右へとトラバースをし、オーバーハングを右に捲い て4mほど登っていく。このころから夕暮が迫ってきた。これ以上の行動はつづけられない。今夜はここをビバーク地に寝なければならないがここはビバークできるような場所ではない。そこで用意してきた、日本用品で求めたハンモックを吊って寝る仕度をする。

私は4m登った ところから再び4mほどもどり、オーバーハングの下にハーケンを打ち込んで、ハンモック吊りの作業をする。 約10分もかかってハンモックを吊ることができたが、こ れを拡げて中に乗り切ることは非常にやっかいであった。 しかし、南が乗ってしまうと、次に私が乗るのは案外簡単で、二人は足を交互にさせてこのハンモックの中に体 を横たえることができた。足を伸ばすと、これはなかな か寝心地のよい寝台である。足の下はぐっと空間がひろ がり、すばらしい楼閣のホテルである。夜食としてハム と水をとり、靴をぬいでゆっくりと寝た。

8月16日(曇のち晴、夜は雨)
ふと目をさますと、すでに空は白んでいる。私は、ま だ寝こんでいる南を起こす。二人ともハンモックの中に寝そべって、食事をすませた。食事といってもせんべいぐらいのものである。仕度をすませ、ハンモックをおりるころ、ふと下方を望むと、もうすでに一ノ倉沢出合付近には多くの登山者が群れている。中には一ノ倉沢へと入りはじめている人の姿もある。

まず私がトップになって行動を開始する。ルートは昨日の夕方登ったルートを右へトラバースして、右ななめ上にと登っていく。ここより右端へでるように、なおも右にいって側壁に取りつくのであるが、ここはかなり悪 い登攀であった。ハーケンを打てるようなリスが見あたらず、ボルトを一本使用した。次にハーケンを打ちこんだが、これはやっと1cmぐらいしか食い込んでいかない。

きわめて頼りにならないものであるが、このすぐ先によいリスがあるのが目に入った。私はあるいはきかないか も知れないとは思ったが、まずハーケンにアブミをかけた。もとより頼りになるほど確実に打ちこまれているハーケンではないので、まるでだますようにショックのかかるのを警戒しながら、ゆっくりと最下段に足をかける。

次に上段へと体重を移し、上のリスヘ手を伸ばした瞬間、案の定ハーケンが抜けてしまい、あっと思う間に私の体は墜落した。しかし埋め込みボルトが打ち込んであるので、 四、五mでぐっと止まる。これで体は完全な宙づりだ。 「どうだ?」ジッヘルしている南の声に、「まるでエレベーターで降りるみたいだ」と答えた。再び岩肌に取りついて、ボルトを埋め込んだところまで登る。

ここでボルトを使用することにして。下から南にボルトをあげても らう。さらにアイスハーケンを使用して、3mほどあるオーバーハングの乗り越しにかかる。このとき、中央稜 を登っているどんぐり山の会の人たちから盛んに声援が おくられてきた。やっとのことでハングを越え、2mほ ど登ったところでボルトを2本打つ。

このころはすでに午後3時になっていた。私がこうしてオーバーハングの乗り越しに懸命になっているとき、南は朝6時から9時 間というものを片足のかかとだけしかかからない足場で、私を確保しながら、サポート隊から送られてくる補給物資の荷上げをしていたのだ。

私が苦労して突破したこのハンクでは、はじめの予想ではハーケンが使えず、ボルトに頼るつもりでいたが、実際にはハーケンが使えたので、ボルトはかなりあまってしまったが、ハーケンがいちじるしく不足してきた。私はボルトに縄梯子をかけ、 それを南が登ってきたが、彼にとっても大変苦しい登攀 のようであった。

私が立っているのはアブミの上だから、 南は私の左側からアブミを利用してトップを交代するのである。このような場所で行なうトップ交代は、危険でもあるし、むずかしい。いままでに充分に練習を重ねて いるはずだが、条件の悪いここでは、なかなかうまくいかない。やっとのことで南がトップになり、左ななめ上にと登って、カンテをまわり込んで南の姿は見えなくな る。

しばらくしてから合図があって、私が登っていく。 あたりにはタやみが迫りつつある。しかし、これからの登攀にハーケンは明らかに不足しているので、ヘッドラ イトをつけ、夕やみの濃くなった岩肌を照らして、ハー ケンを抜きながら登攀をつづけた。

ガックンーという ショックとともに、アブミをかけてあるハーケンが抜け、私の体が5〜6m墜落した。上から南のどなるような声 がかかってくる。しかし、私は別に異状はない。ただ空間にぶらさがってしまったので、手がかり足がかりがな く、空中を泳いているような形になった。上の南と応答 をかわしながら、苦しいザイル工作によって、再び登り はじめる。

私の体をつり上げようとする南の努力は大変 なものだし、ザイル操作はきわめて複雑である。かなり長い時間をかけて、私は午後10時ころになってやっと南のいるところまで達しえた。ここは長さ2m、幅が20cmほどの外傾したテラスである。こんな悪いところでも、この衝立岩ではすぐれたテラスといわざるをえない。

充 分にセルフビレーをし、ハンモックを吊るやっかいな仕事にかかる。どうやら吊りおえたハンモックに乗って体 を休めたものの、昨夜は庇の下に宙吊りにしたので快適 であったが、今夜は岩肌にそって吊ったので不安定きわまりない。しかし、それでも、せまいバンドの上でのビバークにくらべたら、きわめて快適なベッドといえよう。

8月17日(曇のち晴)
目をさますと薄明るくなっている。さっそく登攀の準備だ。南がトップになり、ビバーク地点から行動をはじめるが、頭上はオーバーハングである。風化してもろくなっている。この突破はとうてい不可能なので、左側のすべすべした岩肌をドラバースし、その5mほど横にある灌木のついたクラックヘとルートを求めたが、これも登れない。

南は4〜5m直上し、左ななめ上にある8mほどのもろい岩に、きわどいバランスクライミングをつづけ、左にまわり込んでフェイス状の岩肌にでた。南がこれを快適に登攀していくのがザイルを通じて感じられ る。岩壁は日をうけて、てかてかとかがやき、乾いた岩肌に登攀のよろこびを思うぞんぶん味わっているらしい。

しかし、なかなかこれに取りっけず、いきおい上へ上へと追い上げられるように登攀をつづけている。しかしついにリスが求められなくなったらしく、ハーケンを打つに苦労しているようである。一つのアブミから、次のアブミに乗り移り、南が体をあげたとき、無気味な音響 とともに彼は墜落した。その体は5〜6m下まで落ちてザイルに支えられる。

打ちこんだ不確実なハーケンが抜けたのである。だがその下にはガッチリと打ちこんだハーケンがあったので、これがそれ以上の墜落から支えてくれたのである。ぶら下がった南と私は、思わず顔を見合せてニコリと微笑をかわした。

南はこの墜落で、登攀意欲をいっそうかきたてられたらしい。「ようし」とどなると、手足のホールドもないような岩壁を、急ピッチで登りはじめた。垂直になっている岩肌を、どうして登り切れたのか、南はフェースを左ななめ上にと乗り越 し、灌木のはえているバンドヘと出た。

ここでザイルと荷物をあげ、次に私が登っていく。このピッチは15mくらいであった。南のいるバンドは外傾した悪いところであるが、バンドらしいものはこれよりほかに求められ ない。ここで一息ついて、今度は私がトップになって行動をはじめる。

この上にはまたもオーバーハングがあるが、ハーケンを6本打ちこんで乗り切っていく。そこから岩壁はフェース状になり、これを左ななめ上に苦しい登攀をつづけていくとチムニーがある。チムニーに入っ てしまえばよいとは思うが、この入口はオーバーハングしており、ここを乗り越すのは手ごわかった。南のジッ ヘルにすべてをまかし、悪戦苦闘の末、強引に乗り越してしまった。

ここから両壁はつるりとして非常に悪い。すぐ左壁にハーケンを打ちこみ、バック・アンド・二ーによって4mほど登ったところで、またもハーケンを左壁に打ちこんでいく。さらに5mほど登ったところに生 えている灌木を取りに、体を強引にすり上げていくと、一人がやっとすわれるくらいの灌木のあるテラスについ た。

やがて南が登ってきて、ここからはトップを交代する。トップになった南は、岩壁にハーケンを打ち、急な草付きを20mほど登ったところにある草付きのバンドに立 つ。この上は急なルンゼになって、洞穴につきあげている。そこまで約15mほどの登攀である。南は洞穴から下にあるテラスについて連絡してくる。

まず私は荷をあげた。しかし、私のいるところから彼の立っている間には灌木があり、これが邪魔してやりにくい。苦労をしてやっと荷上げをすまし、私が次に登っていく。やっと南のそばに立ったとき、彼はつぱを吐いた。お互いにのどは乾き切って、南は血のつぱまで出しているのだ。洞穴で南と私が一緒になれたときは午後5時になっていた。

ここは両壁がオーバーハングしており、5mほどの庇に なっている。かつてこの洞穴まで人が登っているような話を聞かされたが、その話と実際の洞穴のようすとではいちじるしい違いがあるのには、いささか驚くというよ り、あきれさせられた。その人は単独行とのことではあるが、忍術の心得でもあったのだろう。

まだ夜になるには時間があるので、登れるところまで登っておくことにする。南がまずオーバーハングに取りついていく。この乗り越しも苦しい登攀であった。一日の登攀に疲れきっている私にジッヘルさせ、彼は果敢にハーケンを打ちつ づけていく。約20本のハーケンが打たれて、南はこの乗り越しに成功する。

しかしこのときはすでに夜にはいって、あたりは真暗になっていた。再び洞穴まで戻ってビバークしようと下ったが、途中でハーケンが抜け、ま たも南は宙づりになってしまった。しかし、こういうこともあろうかと、連絡用にザイルを張っておいたので、 さして苦しむこともなく洞穴に下りついた。

ここは2人が横になれる広さがあるゆっくりしたテラスである。しかも岩の垂れさがった尖端からはポツリ、 ポツリと水滴まで落ちている。ビニールの風呂敷をひろげ、ここで水を補給することができたのには、ますます勇気づけられた。もう先のみえた明日の登攀に、もりあがる闘志をおさえて眠りにつく。

8月18日(晴)
ゆっくりと体を休ませ、充分な睡眠からめざめたのは6時ころであったろう。仕度をすませ、あとかたづけしたあとケルンを積み、6時半ころから行動を開始する。南は今日もトップに立って、きのう打ち込んでおいたハーケンにアブミをかけかえながら、スムーズにハンクを乗り越していく。このハンクの上は、3〜4人はすわれるくらいの広さをもったテラスになっている。

ここで私がトップになり、20mほどの4ピッチの急な灌木まじりの草付きをぐんぐん登りつめていく。上からはコールがかかってきた。もうひと息とがんぱって登りつづけ、 飛び出したところは衝立岩ノ頭である。時間は午後1時ころであった。

すぐそばには、サポート隊の多、吉村が待ちうけている。やがて南があがってきた。私たちのそばにある岩峰で一緒になった。「おーい、ジュース」これがサポート隊とかわしたはじめての言葉である。南と私は手渡された甘い、冷たい液体をのみほしながら、多、吉村と手をにぎりあった。(藤芳泰)

○支擾隊
8月15日(晴)
まだ明けやらぬ土合を一人約30Kgの荷物を持って出発。マチガ沢の出合で10分ほど休み、あたりが薄明るくなった頃、一ノ倉沢の出合に着く。南、藤のアタック隊は自分達の装備だけを持って出発。あとは僕たち3人で荷上げする装備を整理する。1回では荷上げは無理なので2回に分けて上げることにして1時間後に出発。

烏帽子 と衝立のスラブの中間リッジからとりつき、真中あたりのコルより衝立のスラブをトラバースぎみに登り衝立岩の基部へ行き、ここより5mほど上がったところにテラスがあり、この上からはザイルがフィックスしてある。ここに荷をデポして、もういちど下に荷をとりに下る。2回目の荷をここに上げ、サブサックにつめるだけつめて登りだす。

急な草つきを30mほど登り、3人らくに立てるテラスに出る。ここからザイルをつけて吉村、穂苅、高橋のオーダーで約30mほどフィックスにつかまりながら登り、三人やっと立てるテラスヘ出る。ここで、ミッテルの穂苅に藤が南をジッヘルしているテラスに上がって もらい、高橋には下のテラスヘもう一度荷をとりに行ってもらう。その間に荷物を何回にも分けて上へ上げる。

その内、藤が第1のオーバーハングを乗越して上へあがったので、吉村も上のテラスヘ行く。このテラスは非常に狭く、2人で立っているのが精一杯。ここで約15Kgの荷を上げる。その間、上からの落石がものすごく、下のテラスにいる高橋などは青くなっている。4時半まで荷上げをやり、あまった荷はデポして4回の懸垂で基部へ下り、中間リッジを下る。途中で穂苅が足をすりむき、あすの行動がおもいやられる。BCには薄暗くなったころに着く。

8月16日(曇後晴・夕刻雨)
3時半に起き穂苅の足を見ると腫れているのでむりに休ませ、2人で約5Kgの荷を持って出発。アタック隊はもう行動を開始しており、「来るのが遅い」と言ってどなられる。上でカラビナがたりないと言うので、ちょうど緑山岳会のパーティにむりに頼んで、カラビナを10枚ほど借り、通いなれたルートをフィックスにつかまりがらハング下のテラスまで行き、6回に分けて荷上げ をする。

午前中に終ったので、午後は下の中間リッジで写真などをとる。上では予想以上にハーケンがきいて、明日にでも上へ出られそうな気配である。BCに四時頃に帰り、穂苅が土合山の家まで行って登れる可能性あり、と東京の事務所まで電話をかけてくる。6時半頃、多が登ってくる。

8月17日(曇後晴)
夜中にすごい雨が降ったので、上ではどうしているかと心配しながら、5時半に出発。高橋には西黒尾根に廻ってもらい、3人でかよいなれた中間リッジを登る。上はまだハンモックに入っていて、連絡するとすごい元気なので、ほっとする。ハーケンがたりなく抜きながら登るから、今日中に上へ出られるかどうかわからないが、 一応水とハーケンを持ってこい、と言うので南稜を登る ことにする。

吉村、穂苅、多のオーダーで、テラスよりアンザイレンをし、1ピッチは10mぐらい登り、バン ド状のテラスヘ出、そこから右へすこしトラバースして、 クラックを15mほど登り、30mのフェースを右へ2mほどトラバー一スしてから左へトラバースぎみに登り、バケツのほってある草つきをすこし登り、次に6ルンゼ側のフェースを10mほど登って6ルンゼ右投に入り、下のチムニーをバック・アンド・二ーーで快適に登る。

最後のチムニーはトップを穂苅と代り、30分ぐらい前に来た高橋と懸垂岩の下で一緒になる。懸垂岩は登った人がいないと言うので、4人交替でジャンビング二本、ハーケン三本で吊り上げて登る。上でコップ状ルンゼを登 ってこられた北稜会のパーティの人に、ハーケン10枚を お借りする。

万一、4日目に出られないと、食料と水が3日分ぐらいしか上がっていないので危険なため、東京の事務所へ救援隊がすぐ出られるように連絡するため、吉村と穂苅がさきに下る。6時半頃2人が帰って来て、下へおりようとしたがルートをまちがえ、コップの方へおり、衝立ノ頭まで行かれず水だけそこヘデポしてきたと言う。穂苅が今日帰るので、東京へ連絡をたのむ。

8月18日(晴)
もしかして上へ出ているといけないと言うので、吉村と多で西黒尾根から衝立ノ頭へ行くことにして、高橋には中間リッジヘ行ってもらう。5時半出発。ザイル3本とハーケンと水と旨い物を持って行く。太陽に照らされ ての西黒尾根は気は急ぐがピッチがあがらず、そうとうにまいる。

肩ノ小屋できいて見たが未だ来ていないと言 うので、1ピッチで一ノ倉尾根を下り懸垂岩の下へ出、懸垂岩をかんたんに登り、すこし下った所よりザイル60m1本、30m1本をフィックスして下る。下る途中で連絡するとすぐ下で元気な南の声が聞えて、「それっ」 とピッチを上げて下る。

多が衝立ノ頭へ行った時には藤はもう出ていて南をジッヘルしている所だった。それから10分ぐらいして、薮っ蚊にさされてはれた顔をニコニ コしながら上がってくる。2人とも思ったより元気なのにはおどろく。

4人いっしょになり感激の握手。ジュースで乾杯。もってきた物を全部たいらげてのち、登攀の模様など聞きながらゆっくりと一ノ倉岳へ。肩ノ小目で吉野先葦と会い、西黒尾根を高橋の待つBCへと急ぐ。南、高橋は明日帰ると言うので、3人で8時半頃、思い出多い一ノ倉沢の出合を後にする。土合山の家へより、い まで御世話になった御礼を言う。(吉村豊:雲稜32号))