衝立岩正面壁積雪期初登   


昭和35年2月14日〜19日
一ノ倉沢支援隊
   羽賀、L吉野、SL沢田、L武藤、飯村、西川、篠崎、大西、藤代、小谷、
   上田、吉川、大川、三浦、高橋悟、梅崎
稜線支援隊
   L渡辺、多、石橋、松本、吉村、小泉、雨宮、穂苅、高橋寿、小川、内野
登攀隊
   L南、藤
その他参加者
   福原、近藤、三木(アルパインシネ)、牧野、篠倉、井上(毎日新聞関係)

○登攀隊

2月17日(晴のち風雪)
午前3時に起床する。空には星が無数にきらめいて、快晴は疑いなしである。午前4時、支援隊のリードについて一ノ倉沢に入り、中央稜の基部についたのは、夜が全く明け離れた7時ころで、直ちに登攀を開始する。ルートは、コップ状のスラブを横断して烏帽子スラブと衝立スラブの中間リッジの末端からである。

中央稜基部から南がトップで20mほど下って、衝立スラブをトラバースする。40mのザイルがのびきったところが基部である。ここは昨夏登った取り付きより少し上部である。雪のついた草付きを、右に20mのトラバースは、非常にわるくいやなところだ。トラバースのあと、同じように雪のついた急斜面を、20mほど登って第一テラスにつく。天気はよく、風もないので汗ばんでくる。

テラスから次の登りは、夏にはそれほど悪いとは思えなかったが、いまは氷がついているので苦労させられ、一人がやっと立てる程度のせまい第二テラスにつく。長時間ここに立っているためには、自己確保をしなければ、つかれてしまうところである。ここから40mのザイルを二重にして登るため、ピッチの間は短いものになり、第一のオーバーハング下で一ピッチになる。

オーバーハングの状態は、夏とさして変化はないが、オーバーズボンその他を私たちは着込んでいるために、スムーズな行動がとりにくい。下からの支援隊と応答をくり返しながら乗越しにかかっていく。オーバーハング下の2mは垂壁であり、その上に30cmの庇状に岩がかぶっている。ここはハーケンの打ち込みが不安定らしく、南から”抜けるかも知れぬぞ”と声がかかる。

が、どうやら乗越しに成功したらしく、ザイルがスムーズにのびていく。南からの合図にしたがって登っていくと、垂壁の中間に打ったハーケンはガクガクにゆるんでいる。やむなくその上のハーケンまで手をのばし、アブミをかけて登る。ここでトップを南から藤にかわり、5〜6mほど直登してから、右斜め上に登り、第二のオーバーハング下で南を確保する。

困難な第二のオーバーハングを突破するころから、天候が崩れ出してきた。下の支援隊との応答も、風に消されがちになって聞きとりにくい。第二のオーバーハングから、ビバーク・バンドの登攀になるが、この頃から風雪はますます強まり、体に容赦なくぶつかってくる。私は懸命に登攀を続行した。20mほど直登していくと、ビバーク・バンド左側から1m離れたところに出る。

ここから右へと移るのであるが、右足をバンドに移し、体重をかけようとすると、バンドが外傾しているところに加え、雪がついているためにスリップしやすくどうにもならない。いろいろ試みてもどうしても移ることができず、激しい苦闘である。やっとのことで、アイスハーケンが半分ほど打ち込めるリスを発見し、ここにアイスハーケンを打ちこみ左手をかけ、右手を一ぱいにのばして、夏に打ち込んでおいた埋め込みボルトにカラビナをかけることに成功する。こうして強引にバンドに立った。

風雪にたたかれながら、南と2人がバンドについたのは午後4時半になってしまった。時間的にこれ以上は登攀はできないので、ピパークの準備をする。ビパークといってもせまいバンドであり、腰かけることさえできない。ここは南の考案による寝台を作った。それはピッケル2本をつないで、ピックの長さ45cmのパイプをさし込み、上の支点からピッケルの吊り棚を作り、これにエアー・マットをのせ、その上に二人が足を投げ出して坐るという方法である。この垂直の岩壁でのビバークとしては、この方法はもっともすぐれていたといえる。こうしてどうやら風雪の吹きつけている岩壁で、一夜をすごすことができた。

2月18日(風雪)
垂直の岩壁で、どうやらビバークをしたものの、一晩中吹きつけている風雪に、その寒さは骨の髄までしみ込んで、ほとんど睡眠はとれなかった。7時ごろ、鳥のむし焼を朝食にし、8時に登攀を開始する。アイゼンは着装せず、オーバーシューズで登りはじめる。トップは南で、バンドから4mほど直登するが、ここでハーケン3本を使用する。

ルートは左斜め上に登ってから回りこんでいくのであるが、手がかりは外傾しており、足がかりには雪がついて滑りやすい悪場である。ここを慎重に回りこむと垂直に落ちた岩壁になり、アブミを掛けかえながら水平にトラバースをつづける。20mほど進み、ちょっとしたテラス状の所につく。昨日に引きつづいての風雪であり、その中での行動では寒さに堪えられず、トップは一ピッチ毎に交代していく。

南に代わって次のピッチは私がなり、テラスから小さなオーバーハングを乗り越し、垂壁を5mほど登っていくと、ルンゼ状になったチムニーにつく。チムニー内部は薄氷がぺろりとおおっているので、オーバーシューズではどうにもならず、連絡用のザイルを使ってアイゼンをあげてもらう。しかし、バック・アンド・ニーの姿勢でのアイゼン着装は、非常に苦労させられる。やっとのことでアイゼンをつけることに成功したが、アイゼンをつけても苦しい登攀である。

僅かずつ高度をあげ、チムニー上部の灌木につかまって乗り越し、灌木のあるテラスについて思わずほっとする。ここから南がトップになり、正面のぺろっとしたフェースを登攀し、急に落ちている雪面を慎重に登って、洞穴ルンゼ下にでる。次のピッチはルンゼを登って洞穴までの20mであるが、これの登攀も苦しい。洞穴で一休みして再び行動をはじめ、午後3時ごおに最後のオーバーハングにアタックする。

トップ南が登り切り、次に荷上げをしてから私が取りつく。はじめのハーケンにアブミをかけ、これに私が乗った瞬間、腰にさげていた方のアブミが”ガチャッ”という金属音を岩壁に響かせて落ち、ハッと思う間もなく見えなくなってしまう。一本のアブミではどうにもならず、南からアブミをおろしてもらうのだが、3mあまりもかぶっている庇の先では手がとどかず、アブミの下にハンマーをおもりとし、振り子のように振ってくれるが、これを握るのに苦労する。

やっとのことで最後のオーバーハングを乗り越すと、そこは広いテラスである。テラスからはクラックをルートにするが、ここが意外に悪くなっており、かなりの時間をこの登攀にかけてしまう。これから上部の急な雪面を、コンテニュァスで約70mほど登り切ったところが衝立岩ノ頭である。時間はすでに午後5時半になっており、頭から50mばかり登った風あたりの少ないところを選んでビバークの準備をした。

2月19日(風雪のち晴)
今朝も昨日から引きつづいて風雪であり、いつ天候がよくなることやらわからない。今日は支援隊と握手できることをたのしみにし、午前8時半ごろ行動を開始する。懸垂岩まで途中に数カ所、ちょっとした悪場があり、これを慎重にすぎて懸垂岩の手前にいくと、そこに支援隊によってザイルが固定されている。これを撤収し、懸垂岩についたのは11時ころであった。このとき上部から、支援隊の石橋、吉村からのコールがかかってきた。(藤芳泰)

〇一ノ倉沢支援隊

2月14日(晴のち風雪)
夜の明けきらぬ土合駅に下車、山の家に寄って装備を点検、4時すぎに全員出発する。西黒尾根の取りつきで、稜線支援隊にわかれ、一ノ倉沢出合に向かう。しばらく降雪はなかったとみえ、雪が比較的しまっているので歩きやすい。六時ころに一ノ倉沢出合につき、すぐBCを設営する。天候は晴れ上がっているが、.朝やけがしている。8時半に、衝立岩基部まで偵察にいく。一ノ倉沢出合あたりからの本谷は、デブリで埋まっている。

パーティを二つにわけ、掠奪点裾尾根から映画をとる隊とわかれ、衝立沢を横断して中央稜裾尾根に取りつく。右下の衝立スラブは、中間から下はきれいに雪は崩れ落ち、上半は無気味に静まりかえっている。ルートは衝立スラブ側をトラバース気味にとって登るが、岩盤に雪が薄くのっているので苦労だ。中央稜基部でアンザイレンし、衝立スラブを横断、衝立岩基部につく。

そこから下り気味に25mほど草付きを横断するのだが、ホールド、スタンスともに不安定で悪い。この頃から雪が降りはじめる。トラバースのあと、15mほど灌木まじりの壁を直上して第1テラスにつく。ここまでザイルをフィックスし、登攀用具の一部をデポして下降する。帰りには登りのトレールは消えており、滝沢上部からはひっきりなしに雪崩が落ちていた。

2月15日(風雪、停滞)
昨日午後からの風雪は、夜明けとともに一層はげしく荒れ狂い、天幕をゆるがせており、ラジオの天気予報は暴風雪注意報を報じている。午前5時第1回目の稜線支援隊との無線交信で、今日の行動は取り止めを指令する。正午、4名が不用になった天幕2張を撤収して下山。2人のラッセルマンがついたにもかかわらず、土合まで4時間もかかってしまう。降り続いた雪も10時頃やっと止み、晴れ間が見えてくる。

11時、5名でBCを出発。一ノ倉沢に入る。膝までのラッセルもデブリの所では腰近くまであり苦しい。掠奪点裾尾根取り付きで2隊にわかれ、1隊は衝立のスラブを横断し、末端より中央稜裾尾根に取り付く。稜線は前日の吹雪で雪庇がかなり発達している。時おり落ちる滝沢スラブの雪崩を左に、掠奪点よりのコールに答えながら基部に3時半に着き、BCに戻る。今日は吉野、沢田が帰京し、小谷が入山してきた。夜は満天の星で、翌日の晴天を約束してくれる。

2月17日(晴のち風雪)
午前4時に天幕を出発。月明りを利用して昨日のラッセルの跡をたどる。中央稜梶尾根の末端近くで、月はシンセン尾根の背後にかくれたが、空はすでに薄明るくなっていた。中央稜基部着6時半。直ちに南、藤の登攀隊によりアタック開始。運び上げた16ミリ撮影機を据え付け、福原氏が撮影を始める中を、中央稜基部より20mほど下った地点より衝立スラブをトップ南が先日のフィックス地点までトラバース。

続いて藤、最後にサポート隊の武藤がフィックスを外すため、同じくトラバース。南、藤がフィックスを伝って最初のテラスに立ち、武藤がフィックスザイルの端部を外して戻ってきた頃には、次のピッチを南がトップで登っている最中。すでに中央稜基部には毎日新聞のカメラマンと三木氏が所狭しとカメラを据えて機関銃のようにシャッターを切っている。

10時5分、第1の大オーバーハングをトップ南が通過第2のオーバーハングは藤がトップ。この頃より空が曇り、雪が舞い始めて来た。正面壁もガスに巻かれだし、時おり交える短い言葉が聞こえるだけとなってきた。午後2時、アタック隊の健闘を祈りながら下る。中央稜裾尾根末端で、「懸垂岩にフィックス完了」の稜線サポート隊の連絡を登攀隊に叫んでいる羽賀と会う。うまく彼等に聞こえたようだ。吹雪も本格化しそうな気配である。

2月18日(風雪)
昨夜は風雪がおさまるようであったにもかかわらず、今朝になると吹雪は吹きまくっている。登攀隊の昨夜のビバー-ク地点が外傾バンドならば、上へ抜けるよう努力しているだろうと推定し、出来る限り彼等と連絡をとるべく風雪の中を7時に天幕地を出て掠奪点へと向かう。.咋日のトレールは完全に消え、新たなラッセルに苦しみながら、雪崩を警戒しながら急ピッチで登る。

掠奪点裾尾根は末端より先日フィックスしたザイルを頼り、上へ出る。尾根の最上部の大木の所で携行した無線機でBCと交信したのは9時半である。すぐに登攀隊とコールを交す。しかし、風雪の中で、複雑な応答は無理である。雪崩はほぼ1時間おきに滝沢あたりより巨大なのが落ちている。そのうちコップのスラブより落ちたのが、瞬間この高い地点まで雪煙りをあげ、我々を真白にしてしまった。

11時、風のあい間に叫んだ「イマドコダ」の問いに対し、「ナナダッシュ」と答えがあった。「7’」とはサポート隊と登攀隊との間で約束してある符号で、ビバーク地点の外傾バンドより2ビッチ登った所である。その後も根気よく応答を交した結果、登攀隊は3時頃衝立ノ頭へ出る予定を伝えてくる。BCに定時の無線スイッチを入れたが、残念、この時になって感度が全然ない。午後1時までねばったが、一先BCに戻ることに決める。

ザイルのフィックス地点まで戻りザイルをダブルにして懸垂下降。2度目の懸垂下降は武藤が先に下る。本谷の雪原の5m上の小さなバンドまで下り、ザイルを外した瞬間、本谷上部より巨大な雪崩が発生。上でどなった西川の声に、武藤がとっさにザイルをつかんで3〜4mゴボウで登り、ザイルを腕に巻いた時、雪崩は襲って来た。続けざまに2度落ちた雪崩の風圧に2人が耐えて、雪煙がなくなった時、下の様相は一変していた。デブリが2mもつもっている。夢中で下降し、ザイルを巻き、腰までもぐる深雪の中を出合いまで下りホッとする。

2月19日(雪のち晴)
昨夕稜線サポート隊より「午後5時現在登攀隊まだ上部に出ず」の片側通信があり、いささか気になるが、BCを撤収し取りあえず土合まで下ることにする。キスリング一ばいの荷を背負ってマチガ沢出合あたりまで来ると天気は快方に向かってきた。午後3時、土合より出迎えに登ることとする。携行の無線で15分おきに交信しながら登り、ガレ沢ノコルの手前で彼等を望見、感激の握手を交す。(西川慶治)

○稜線支援隊

2月14日(晴のち風雪)
西黒尾根の取付点で、別隊と健闘を約して別れた。ここより鉄塔まではワカンを付けても股まで埋まるため、交互に空身となってラッセルした。やがて快晴の空は明け始めたが一面の朝焼けは、午前中までの天候を告げているようだ。全員調子は上々で、10時ラクダの背に到着。今回初めて使用する無線機のスイツチを入れる。BCからは、待ちかねたように応答があり、現在位置、天候、パーティの状態を知らせ早々に出発する。

この頃から、気づかわれていた天候は次第に悪化し、肩ノ広場に着く頃には猛風雪に変わってしまい、サンゲ岩の上部から肩に肩ノ小屋の内部は完全に雪がつまりとても便用は出来ない状態だ。それでも僅かなすき間を見付けてもぐり込み、冬山装備を着ける。ここまで荷上げしてくれた小川、内野に別れ、一層重くなった荷物にぼやきながら、風雪の荒れ狂う雪稜を一ノ倉岳に向かった。視界は5〜6mしかきかないため、越後側からの風雪に吹き上げられるように雪庇に近づいてしまうので非常に神経を使う。

万太郎谷側の斜面の表面クラストは、重荷を背負った我々の体重を支えてくれず、しばしば股まで落ち込むので著しく体力を消耗する。肩ノ小屋より約3時間、猛風雪中の行動のため、隊員にも疲労が出たので、ノゾキの手前で僅かに平らな所を見付けて設営することにする。天幕2張それに荷物を入れる雪洞を一つ掘って、全員天幕にはいったのは5時を過ぎていた。

2月15日(風雪)
昨日からの風雪は少しも衰えず、その勢いはますます強くなるようである。午前4時、出発準備をすっかり整え、ベースキャンプに連絡すると、今日1日は停滞と指令がある。今日下山予定の2人を含めて全貫停滞する。下からの気象通報によれば、この天候は長びくかも知れないとのこと。食糧管理を始める。

2月16日(風雪のち晴)今日も朝から激しく風雪が天幕をたたいていたが、8時過ぎから少し弱まってくる。今日下山する4人を、多、吉村が肩ノ小屋まで送って出発する。12時頃から天候は急激によくなり、万太郎谷のガスが晴れるに従って、オジカノ頭から万太郎、仙ノ倉の国境稜線が現われて来た。我々の方も石橋、松本の2名が標識を持って、一ノ倉尾根の下り口の偵察に向かう。アルパィン・シネ・グループの近藤カメラマンは16ミリを夢中になって廻していた。

2月17目(晴のち風雪)
昨夜BCと連絡の結果、コップ状岩壁は放棄することになったので、上部サポート隊は衝立ノ頭へ天幕を出す必要が無く、従って荷が大部軽くなり行動も容易になった。ナイロンザイル4本、60mのフィックスサイル2本、縄梯子2本、その他を持ってまだ明けやらぬ天幕を後にする。一ノ倉尾根の下り口で御来光を迎え、冬にはめずらしい快晴に自然に気持も軽くなって来る。

登攀隊も順調にいっているだろう。一ノ倉岳の広い斜面を下り切り、ナイフェッジになる所で、3人づつ2組に分れてアンザイレンする。5ルンゼノ頭までの上下は、たいして悪い所もないが、両側が切れ落ちているために、慎重に下る。尾根はコップノ頭から急に傾斜が強くなり落ち込んでいる。この頭からの下りに40m一本をフィックスする。日が高くなるにつれて、右側の3ルンゼ、滝沢の各ルンゼから盛んに雪煙が上がり、見るまに大きな雪崩となって落ちていく。これが「高みの見物」というやつで、下の方ではさぞ青くなっているだろうが、我々は「すげえなあ」と堅パンをかじりながら十分に雪崩を堪能する。

懸垂岩の手前にザイルを1本固定し、コルの岩峰の上に出た。これより懸垂岩のコルには、奥壁上部を大きく捲けそうだが、傾斜が強いうえに、雪の状態があまり良くないので、直接コルベ懸垂下降した。帰りのために10mの縄梯子をぶら下げる。このころより今まで快晴だった空は次第に暗くなり、雪さえちらつき出した。時間は12時に近く、衝立ノ頭まで固定ザイルを伸ばしたかったが、時間的に無理なので、時間の許す限り下ることにし、多トップで懸垂岩の乗越しにかかる。

夏に来た時、埋め込みボルト、ハーケンを打っであったので、アブミ吊り上げ数回で上に出た。ただちに縄梯子を下ろし、石橋がそこまで上りここから60mのフィックスザイルを伸ばす。最終地点に、食糧、テルモスにつめた紅茶、手袋、靴下等を詰めたザックをハーケンで留め、引き上げる。無線連絡によると登攀隊は順調なピッチで登っているらしい。

2月18日(風雪強し)
今日も猛烈に吹雪いている。この中で登攀を続けている二人は、さぞ苦闘していることだろう。昨日のビバーク地点は夏の初登攀の時の2回目の地点なので、上部の状態が良くても衝立ノ頭へ出るのは12時過ぎになると思われたので出発を遅らせる。多、石橋が先発で懸垂岩まで登攀隊を迎えに風雪の中へ出ていった。少し遅れて、渡辺、吉村の二人が無線機を持って出かける。

今、どの辺りを登っているのだろうか、横なぐりに吹きつける風雪の中で無線機のスイッチを入れる。しかし、雪が着いて絶縁が悪くなったのか、さっぱり応答がない。遂に連絡をあきらめて二人の待っ所へ急いだ。懸垂岩の手前で登って来る2人を見付けたが、登攀隊はいない。話を聞いてみると2時まで待ったが上がって来ないので引き上げたとのこと。この時間に上部へ抜けられないのでは大分悪いのではないかと、急に心配になる。しかし今朝の連絡では、食糧、燃料ともに心配はなさそうなので、一応天幕に戻ることにした。

天候は悪いし、登攀隊の予定も遅れているので、今までよりも食糧管理を厳重にする。夜、交信時間が来たので迷技術者が総動員で無線機の修理を行なったが、一向に返事をしてくれない。しかし、一応今日登攀隊が上がらなかったことを連絡しておく。(これは下のBCでキャッチされていた)

2月19日(風雪のち晴)
食事を終わる頃より風雪は少し治まって来たようだ。石橋、吉村の二人は登攀隊を迎えに一ノ倉尾根を下り、残り全員にて、万一に備えて一ノ倉岳の頂上に雪洞を掘る。丁度雪洞が出来上がるころ吉村の興奮した声が、登攀隊の発見を伝えてくれた。「やったぞ」張りつめていた気持ちが急にゆるんでゆくのを感じる。石橋が単独で迎えに下っているとのこと。早速、多、吉村、松本の三名に天幕の撤収に戻ってもらい、渡辺と近藤カメラマンが迎えに下る。

下るに従って天候は徐々に良くなり、はるか下の方に湯桧曽川までが望まれて来た。コップノ頭まで来ると懸垂岩のやや上に三人の姿が見えた。完登を祝する堅い握手を交わし、登掌中のことを色々と聞く。南、藤の両名の意気は、すこぶる盛んで、日数さえ許せばコップ状岩壁も継げたのにと残念になる。一ノ倉岳14時、天幕場では殆ど撤収を終わっていた。(渡辺浩志・雲稜33号)