会の誕生 : 吉野幸作  


(東京雲稜会30周年記念誌より)

















昭和20年8月15日、あのいまわしい戦争は終結したが、東京の街は被爆の傷跡が深く、すっかり荒廃してしまいました。そして、その日その日の生活に追われる民衆は衣食住を求めて野獣の如く、街から街をさまよい歩く世相です。.

軍隊から解放され、再び職場に復帰した私はその翌年の夏、職場の伸聞と共に白馬岳に登ったのです。「国破れて山河あり」とか、山は戦前と少しも変わらぬ美しい姿で迎えて呉れました。息の詰まりそうな都会から逃れて大自然にひたると共に、山に対する情熱が再び芽生えてきたのです。K会を経てM会に所属した私は戦中の「ウップン」を晴らすが如く、上越、丹沢等をただガムシャラに歩き登っておりました。行く先も定めぬまま列車や電車に飛び乗る事もたびたびでした。しかし、目的や計画性の無いそんな山行にいつしか、むなしさを感ずる様になったのです。

昭和25年1月、鹿島槍ケ岳を東尾根から狙ったのですが、小数パーティ(三名)のため風雪とラッセルに苦闘を強いられ、遂には第二岩峰を目前にして無念の涙をのまざるを得ませんでした。山は安易には登らせては呉れません。系統だった計画と、共に登る仲間を多く持つ事の必要性を知り、山岳会設立の意を益々強めた訳です。また、同年2月富土山を登ったときの事です。青空の下、流れる雲、雪煙を上げる屏風尾根の稜線、雲と雪と岩稜のコントラストが非常に美しく印象的でした。しばらくは足を休め眺めていたとき、脳裏に浮かんだのが「雲稜」の二字です。東京雲稜会の会名はこの時誕生した、と言って過言ではありません。

東京逓信局工務部、これが当時私の勤務する職場でした。部内に東逓山岳部と言うクラブがあり、私も在籍していましたが、とても山岳会と言える様な組織では無く、むしろハイキングクラブに近いものでした。しかし、何人かの部員は沢歩き程度の山行を実践しており、丹沢、三ツ峠等の山行には私も同行しておりましたので、これらの人達にも山岳会設立の主旨を説明して、参加して貰ったのは勿論の事です。

昭和25年2月、師走を目前にして神田万世橋の柳森神社にわいて、設立第一回集会を開催しました。会名はかねて腹案であった、「東京雲稜会」と呼称する事とし、他に会旗、会員章、会則等を制定。第一回冬山合宿を八方尾根において実施する事とし、会活動の第一歩を踏み出したのです。

それから30年余、悲喜様々な出来事に直面しながらも、先すは順調に登山活動を続けてきました。今、静かにマブタを閉じると、一ノ倉南稜、衝立岩正面壁、屏風岩東壁等多くの冬期初登撃に、南をはじめとした会員の結束により成功し、全員にて喜びを分かち合い、また、山岳会として最も恐れていた遭難事故の発生に際しては、会員が沈滞する気持にムチ打ちながら行なった捜索、遺体収容作業等が走馬灯のように想い浮かんでくるのです。

30年余の年月は長くもあり、短かくも感じられてならない今日この頃です。

設立第1回集会出席者名
川又孝之、塚田耕一、南博人、遠藤寛、渋谷清、八戸四郎、大菅圭司、吉野幸作
以上8名です。