一の倉沢烏帽子岩南稜積雪期初登攀  


谷川岳一ノ倉沢烏帽子岩南稜(積雪期)
昭和33年2月23日〜24日

登撃隊         L南、中島
下部サポート隊   L多、塩川
稜線サポート隊   L西川、篠崎、飯村、渡辺

2月23日
午前3時、スキーヤーで超満員の列車からやっとのことで、全員土合駅に下り立つ。数日間は全く降雪がなかったらしく、雪面は氷結し、ビブラムでは滑リ易い。月はないが雪面は薄明るく白夜といった感じだが、蒸されるような列車内から外気にふれると、膚をさす様な寒気である。土合山の家に立ち寄り、全員スキーを預け西黒沢の出合で、稜線サポート隊と別れる。今日一ノ倉沢に入るのは我々の他は雲表倶楽部の人々である。

ラッセルが全くないのは有難いが、サポート隊はキスリングの重荷に加えて、一ノ倉沢の出合まで休憩がなく少々きつそうであった。厳冬の一ノ倉沢は黒と白のコントラストで我々にせまり、それは荘厳なまでの美しさであった。白々と明けて来る国境稜線上は蒼空で、今日は快晴に恵まれそうである。一歩一ノ倉沢に入ると積雪は深く、ワカンをつけていても、腰近くまで没する。

一ノ沢の出合を過ぎ、雪崩に注意しながら先を急ぐ。沢筋はデブリで埋まり、どこから出てくるか見当もつかぬ雪崩に、神経を尖らせながら進む。過去二回の偵察で様子のわかっている中央稜の末端尾根に取り付き、そのまま中央稜の基部へと向かう。ラストからリーダーの南が盛んに追い立てるが、苦しい登りでピッチは上がらない。中央稜の基部では先着の雲表倶楽部の人々が、中央稜登撃の準備をしており、お互いに健闘を約して別れる。

南稜テラスまでのトラバースは、雪崩にそなえ鳥帽子奥壁基部に沿って、斜左上にザイル工作をする。快晴を約する陽光は既に高く昇ってわり、雪は軟らかくなってワカンに付着する。南稜テラスは積雪の為、無雪期よりもはるかに高くなっており、頭上3mくらいでチムニーの取り付きになる地点である。ここで中央稜の基部に天幕を設営するサポート隊の多、塩川と別れ、ワカンをアイゼンに替えて、南がトップで登撃を開始する。9m程のチムニー内部は完全なブルーアイスだ。

トップはハーケン四本を連打して左側を吊り上げで登る。時間を稼ぐ為、ラストは途中から縄梯子(約五m)を使用するが、たった15m程の登撃に3時間近い時を過してしまった。チムニー出口のテラスから上部は40m近いフェースとなり、ホールド、スタンス共に堅氷に閉ざされ、アイスバイルの欲しい所だ。微かなバンドを右手奥壁側へと、慎重に斜上し、途中から細かいフェース左上へと直上するが、ハーケンの打ち込めるリスはなく、苦しい登撃だ。

この微妙なバランスの壁を抜けると、スノーリッジとなり、ここでトップの南はジッヘルをしていた。25m程このスノーリッジを登ると、奥壁側から6m程の岩が張り出しているのに頭を押さえられる。その右手は黒々とした岸壁になっており、ルートは岩の左際に沿って廻り込む。ここから露岩は草付きまじりになっており、リッジが現れる。このリッジは手の出しようがなく、自ずとルートは6ルンゼ側に追い込まれてゆく。

そして現れる10mのフェースをハーケン一本を打ち込んで登り切ると、再び露岩と草付きになり・上はスノーリッジになっている。ここに立つと正面には、2ルンゼと4ルンゼの一部が視野に入り、3ルンゼの氷壁化した全貌が望まれる。黒々とした岩に氷塊がこびりついたような岩壁は妖しいまでに鈍い光を見せる異様な美しさである。

「こいつは凄い」と見つめていると、身を慓わす様な轟音と共に、巨大な雪崩が雪煙をあげて四ルンゼから落ち、物凄いスピ−ドで本谷を流れ、二ノ沢方面にまたたく間に落下していった。私達は何ともいえぬ気持ちで顔を見合せ、再び行動を開始した。スノーリッジを登って行くと黒い岩が現れる。トップの南はこの岩の左から、ルートを6ルンゼ右投に5mほどトラバースするが、その先は、断ち切った様な急斜面で、6ルンゼ右股には移り切れない。やむなく戻って今度は岩を左にして登り始める。

ちょっとした露岩の所に出ると、カンテ状のリッジとなり、その上に3m位のチムニーが望まれる。カンテ状のリッジを3本のハーケンを使用して登ると、氷の詰まったチムニーである。この上は20m位の最後の岩壁となっている。この頃より日はかげりはじめ、辺りに暮色が追ってきた。無雪期にはこの岩壁を乗越すか、チムニー上部で6ルンゼ右股に移るのがルートであるが、今はチム二ー上に雪庇が発達し、簡単には6ルンゼ右股に移れない状態である。

トップの南は2m程壁を登ってから、ハーケンを打ち込み、左方15m位に位置する6ルンゼ右股のチムニーへと、ザイルによって振り子トラバースで取り付く。ラストの中島が振り子トラバースを終え、チムニー下に達した所でトップを南と交替するが、チムニー下方に詰まっている青氷の、かぶったチョックストーンをやっとの思いで越えると、左側は黒い岩壁となり、4m位はホールド・スタンスも見当らず、手のつけ様のないブルーアイスにおおわれている。

ここで再び南がトップに立ち、手袋を外し素手となり、10本歯のアイゼンを思い切り蹴込んで、理屈抜きの強引な登攀にかかる。夕暮れはそその色を漸次濃くしてゆくが、ピッチは少しも上がらない。ハーケンを打とうとリスを探すが、とうとう岩肌も見えなくなってしまった。苦闘の末にバンドの上に出たトップの南は、ザックを下ろしいよいよ最後の乗越しにかかる。闇の中でわずかなスタンスを求め、手探りでリスを探し、ともかく二本のハーケンを打ち、ようやくトップは乗越しに成功した。

この最後のチムニーに取りついてから何と二時間が過ぎ、ラストの中島は、チムニー上部のハーケンにかかるカラビナを外せないくらい参ってしまったが、最後のカをふりしぼりようやくジッヘルする南の所に達する有様であった。いっしか背後には三日月が細い眉のように冷たく輝き、私達の姿を岩壁にうつすように淡い光を投げかけている。時刻は午後8時に近い。完登し得た喜びのうちにも、ビバークの用意に心がせかされる。奥壁上部の雪面をならしツェルトザックを被り、ピッケルとザイルで、お互いの体を確保して仮眠に入った。

2月24日翌日は日の昇った午前7時半頃、ビバーク地を出発し、烏帽子岩を右に見ながら、奥壁上部の氷雪をカッティングして横断、烏帽子岩尾根を登り、5ルンゼノ頭で、一ノ倉岳でキャンプをしていた支援隊の出迎えを受ける。お互いに無事を喜びあって、一ノ倉岳の幕営地に着き昼食を共にする。午後1時に天幕を撤収し、谷川岳から西黒尾根を下って、土合山の家には午後5時半についた。

(中島正叡・雲稜29号)