前穂高屏風岩東壁雲稜ルート  


前穂高屏風岩東壁雲稜ルート
昭和34年4月20日〜25日

登撃隊      L南、多、石橋
サポート隊   L武藤、荻原

はじめの計画では屏風岩東壁を登り、北尾根からW峰正面を越え、最終地点は前穂高岳頂上であった。結果的には東壁だけで終わってしまい、リーダーの南の言葉通り、 「今回の山行は失敗であった。」と言うことになる。しかし前穂の頂上に立てなかったものの、東壁の登撃には私達パーティのもつカが十分に発揮でき、また満ちたりた行動がとれ、明日への山行に対して、大いに自信を深 めることが出来た。

南が屏風岩の東壁とその周辺に目をつけていたのは、かなり古い以前からのことらしいが、多と私が誘いをうけたのは、昨夏の涸沢合宿のときであった。このときの南の話では冬の前穂に登るルートとして、北尾根から行きたいが、北尾根はその末端から取りつきたい。そしてこれには屏風岩の登撃を含める、というものであった。 そしてラッシュによる方法をとり、パーティは3人位がよいということだった。行動は1日半ぐらいしか得られない。

幸いこの時は鵬翔 山岳会の方々がやはり東壁を試登しており、ちょうど入山時に、下ってこられるのに出合い、いろいろとルートの話が聞け、また、テラス4の少し上部まで、そのパー ティによってルートが拓かれ、ハーケンが20本近く打たれているのを使わせていただいたことである。これで可成り時間的には効果が得られたようだった。

かくして、冬になり、年末、年始は、多も私も燕から槍へのポーラによる正月合宿に参加してしまい、年もあけて2月には南と多が、北海道の芦別岳に行ってしまった。3月には3人の休暇がうまく揃わず、ついに厳冬期から春山になっても、まだ東壁行ができずにいた。

4月に入り、全員7日から数日間の休暇がとれ、あわただしく仕度を整 えて出発したが、8日、9日、10日と悪天候のため行動がとれず、休める日数もなくなってきたので、帰京してしまった。しかし、近いうちのアタックのために、テラス4から10mほど上部にあるテラスに、装備や器具の荷上げをすませておいた。

4月20日(薄曇り)
中ノ湯 9:00上高地 11:00−11:20 徳沢園 13:00〜13:30 岩小舎前BC 15:00
19日の夜行で南をリーダーに、多と石橋の三人で新 宿駅を出発した。昨年の10月、そしてつい10日ほど前と、今回は3回目の東壁行である。中ノ湯までバスで入り、食事をとりゆっくりと出発する。前回からわずか10日ほどしか経っていないが、上高地にもやっと春が訪れたのか、小屋番が小屋の手入れを始めたところであった。横尾の手前で土砂くずれの所があったが、たいしたこともなく、午後早めに岩小舎手前のBCの予定地に着いた。

4月21日(晴)
今日からいよいよ行動を開始するのだが、予定通りの4日間で屏風ノ頭に立てるだろうかー。とにかく頑張ろうと誓いあって、午前6時に幕営地を出発する。わずかばかりの新雪はあるが、1ルンゼはラッセルもなくF1の上部に着く。

ここで前回ボッカしておいた赤いナイロ ンフイックスザイルを掘り出し、難なくテラス4に到達 する。テラス4につくと同時に、1ルンゼ上部より雪崩が落ち始めた。1ルンゼの雪崩はいつも9時というと落ち始める。トップ南はドツペルザイルの他に荷上げ用ザイルを三本持って登撃を開始する。南は前回のデポ地点 の20mくらい上にあるボサのついたテラスまで登り、 約20貫近い荷を、多と石橋でキスリング2つとサブサ ック2つにつめ、4個にまとめ滑車を使って上部にと送 る。

しかし、中々はかどらないので、多が南と石橋の中間まで登って、荷上げのサポートにあたる。荷止げがす むと多が南のところまで登り、南は多が登ると、なお直上してゆく。最後に石橋が多のいるボサ付きテラスまで 登ってゆく。トップの南は上部のピナクルに荷を集結しようとしているが、途中にはオーバーハングがあり、それに荷が引っかかって、なかなか上がらない。

多は南の荷上げをサポートするため、ハングした岩肌に取り付.いて操作をするが、困難な場所柄、思うように行動出来ず、じりじりしている。それでもどうやらピナクルに荷を引 き上げた。いつの間にか午後2時を過ぎている。休めるような場所もないまま、午前6時から行動をつづけ放しであったが、ようやくここで食事をとって一息人れる。

しかし、日没までそう長い時間ではないので、ゆっくり休んでもいられず、再び行動を開始して25mほど壁を登り、扇状の岩のテラスヘと出る。ここまでは前回の登攀でルートはわかっているのだが、岩壁に凍りついている雪氷の状態が変わっているので、トップの南はかなり苦しい登撃になっている。やっとのことで南が扇岩の上に立ったあと、石橋が登るが午後3時を過ぎている。

たった25〜6mに一時間をついやしては、これからの行動がたいへんなので、南は上から石橋を引っ張り上げる。このあと下から多が8貫目ほどの荷を送ってくるが、これの引き上げは登攀以上の苦しみである。あたりは夕闇が濃くなり、多が登りはじめる頃には、ホールド、スタンスもわからないほど暗くなってきている。上で南と石橋 が用心深い確保をし、多が手探りの登撃でテラスに出たときには、既に午後8時になっていた。今夜はここでビバークである。食事をすませ就寝したのは午後21時であった。

4月22日(晴、夜になって雨)
3人とも流石に疲れ、前後不覚に寝込んでしまい、目をさますと6時、日は東壁全体にふりそそいでいた。南 と石橋はすぐアタックを開始する。「朝めし前の一仕事 だ。」と冗談をいいながら、埋め込みボルトを持って、上部 30mほどの垂壁に南は登ってゆく。石橋はそれを見守 りながらジッヘルをする。多は朝めし作りに、南がボルトを埋め込むために落とす、小さな破片岩や砂の真下で炊事 をする。

2時間かかって5本のボルトを打ち、5mしか登れない。少しでも高度をかせごうと、アブミを縮めて使う。その為に支点のボルトの所に膝が出るほどなので、一寸バランスを崩しただけで、体は後むきになって墜落する。しかし、ボルトはしっかりと利いているから、1mほどしか体は落ちない。ここに10mほどの縄梯子をかけ、南は再び下ってきて、3人で遅い朝食をとる。こうした苦しい登攀を、3人でかわるがわる続け、午後4時近くまでかかって25m程登ってゆく。

重壁で休める場所とてないので、扇岩まで下りて食事にする。この頃になると天候は崩れはじめ、霧の流動が激しくなる。今夜は雨になりそうなので、今日中に登れる所までルートを拓いておくという南の指示に、ヘッドライトを用意してから再び登攀を続け、新たに5mほど高度をあげてから、午後8時半、扇岩のビバーク地点に下ってくる。今夜も就寝は21時すぎになってしまう。

4月23日(雨のち晴)
昨夜半より降り続いていた雨は、朝になってもやみそうもなく、テラスの雪はとけるのが早く、今にも崩れ落ちそうなので、10mほど下のテントの張れそうなテラ スに移動する。午後になりやっと雨があがると、壁は白 く化粧されていた。午後1時すぎ、石橋トップで登撃を開始するが、雨で上部の雪がゆるんだのか、頻繁にブロックがルンゼ内に落ち、破片がとび散ってくる。扇岩か ら35mほど上のボサテラスまで、石橋、多と登り、キ スリング1個を荷上げしてから、前夜の地点にビバークをする。

4月24日(快晴)
午前3時に起床する。夜空には星がきらめき、今日は快晴が約束される。今日中には何とか登りきってしまいたいものである。荷物をまとめ午前6時に行動を開始する。昨日の荷上げ地点まで登り、南がトップで更にボルトを14〜5本埋め込む為に直上してゆく。東壁登撃のもっとも困難なところである。

ぎりぎりにしぼったアブ ミから、何回か南は墜落するが、その都度ボルトががっちりと支え、確保者には全くショツクはない。垂壁でのボルト埋め込みは時間がかかるので、10mほど直上の後、南は右斜上にルートを変え、トラバースしてゆく。午後3時、36mのザイルが一杯となったところで、外傾したテラスに着く。このとき横尾のBCにサポート隊の武藤と萩原の姿が見え、下から声援があり元気づけられる。

ここからは右よりのルンゼにルートを求め、ボサと草付きの斜面をぐんぐん登り、途中にテラスがないので、ザイルをつなぎ、60m登った灌木の雪面をならし、ここに荷上げをする。午後7時までかかって4個中3個まで上げる。ここで上は南と石橋、下は多1人と、二手に別かれてビバークすることにしたが、10時近くなって多が残りの荷物を背負って合流してくる。3人と全ての荷が長さ1mの狭い氷のテラスに揃い、ここでサポー ト隊に「完登の見込みあり」のライト信号を送り就寝し た。

4月25日(晴)
まだ寝足りない気分のまま、午前7時に行動を開始する。すぐ上の小さなフェース状にボルト1本とハーケン2本を打って登る。ボサ付きのところを登り、ここで各人で荷を背負い、ボサを頼りに石橋トップで急な雪面を登ってゆくと、もう屏風岩ノ頭までは悪場はなさそうである。傾斜が落ち、あたりが坊主状の尾根になると、上から武藤、萩原のコールがかかる。声援に元気づけられ、足どりも早く登りつめ、午前10時屏風岩ノ頭に3人が立った。空はくっきりと晴れ上がっている。私達は久しぶ りにゆっくりした気分になって、あたりの山々を眺めあかした。
(石橋侯男・雲稜31号)